中村元博士の業績は、追悼号である『東方』第15号掲載の著作目録の目次をみただけでも分かるとおり、余りにも膨大で、ここに一つ一つ取り上げることなど到底不可能です。
今その本質的な部分だけを紹介しますと、およそ次のように言えるでしょう。
まず博士は、非凡な語学力と綿密にして厳格な文献学的手法を駆使し、膨大な資料を収集し、その的確な整理と分析を基礎に、インドの文化を、歴史的・思想的に解明しました。その際、単に思想そのものを解明するだけでなく、インドの歴史を明らかにすることによって、インドの思想文献をインド人の生活や社会的現実と連関させてとらえ、その上でインド思想の意義を理解しようと心がけ、インド思想研究を深化させ、また大きく進展させました。
博士は哲学者でありながらも、歴史学者ならばそれだけで一生の仕事となるような業績『インド史』2巻がある所以です。
仏教研究の分野においては、従来は宗派の教義研究が主であった仏教研究に対し、初期仏教聖典にもとづき、「ゴータマ・ブッダが何を教えたか」を究明したことがまず挙げられます。恣意的な研究を避け、言語学的、文献学的、考古学的根拠によって客観的に考察し、歴史的人物としてのゴータマ・ブッダの姿を浮かび上がらせました。
また博士は、仏典の言葉を、現代の日本人に共通な言葉で理解することを可能にしました。すなわち、難解な仏典を、平易でしかも精確な邦訳で、多くの一般読者のみならず専門家に対しても、提供したのです。
それは、原典からのわかりやすい翻訳による仏典の提供や、さらに「火星語」ともいわれる理解しがたい仏教語を、平易な日本語で解説した不朽の辞典『広説佛教語大辞典』全4巻の刊行といった形で具現化されています。これは、従来の仏教辞典の概念を変え、仏教研究史上一時期を画したと言えましょう。
博士のこのような努力は、仏教やインドの哲学的思想を専門分野以外の研究者にも開放することになり、諸学におけるこの分野の研究をして高からしめました。
博士はまた、日本における比較思想研究の分野を開拓しました。
インド学・仏教学という特殊な文化圏に関わる研究を踏まえ、解明がきわめて困難な「東洋人の思惟方法」を、独特な方法論をもって東洋の主な国々についてえぐりだす、この方面の最初の優れた研究をはじめ、博士は、インドの思想を、他の文化圏との比較においてとらえなおす比較思想研究への道に先鞭をつけました。インドから始まった研究は、東洋に広がり、やがて「世界の諸文化圏における諸文化的伝統において平行的な発展段階を通じて見られる共通の問題」を纏め上げるに至り、人類に普遍的な思想の解明にまで及ぶことになりました。
西洋思想史における、アリストテレスの偉大な仕事を讃える仕方からすれば、いわゆる「哲学」に属する、以上の思想研究の分野の他に、中村博士は、アリストテレスと同様、「論理」や「倫理」の分野における偉大な仕事があります。これを最後に紹介しておきましょう。
博士は、元来普遍的であるべき論理学体系が文化圏により異なっていることを指摘し、東西の論理的思考の構造を究明し、人類共通の思考の枠組みである判断と推理を検証し、否応なくグローバル化する世界に必須な普遍的論理の構築を目指しました。『思想』に長らく連載された原稿をもとに単行化された『論理の構造』はその代表的な成果です。
また「論理とそれを成り立たせている倫理の解明」の必要性を考えていた博士は、『論理の構造』2巻の執筆と平行して、さらに倫理へとその研究を掘り下げ、「構造倫理講座」を連載し続けました。博士の遺志は、それを受け継ぐ東方研究会によって編集され、博士の七回忌に『構造倫理講座』3巻として出版されました。
通常、学問研究は、その対象が、空間的ひろがりと時間的ひろがりにおいて、非常に限定されているものです。
ところが、博士は、その視野を、インドから東洋諸国のみならずユーラシア大陸全体に、また時代的にも古代から現代にまで広げ、比較思想の手法を駆使して、まれに見る世界思想史の構築に成功したのです。