辞書原稿紛失事件
中村博士は「仏教語を日本における万人共通の言葉に出来ないか」との強い願いから昭和21年、仏教語辞典の編纂を開始。以来、20年の歳月をかけ、さまざまな研究の傍らこつこつと書き溜め、その原稿は、実に約3万枚に及びました。
ところが、出版を目前に控えて、出版社の保管ミスにより昭和42年12月初め、その原稿がすべて紛失してしまいました。警察、探偵社、製紙会社や風呂屋まで、新聞社の広告やチラシなど、あらゆる手立てを尽くし探しましたが結局見つかりませんでした。
普通であれば、出版社を責め、言い知れぬ思いに着し、自他共に傷つくものでしょう。
ところが中村博士は違いました。その一つが、紛失の連絡を受けたときの博士のことば。紛失の連絡は、食事をされている時にありましたが、電話を受けた博士は、少し無言で電話を切ったあと、ひとこと「原稿がなくなったというんだよ」と家族に告げただけで、ついに紛失者を責められる言葉は一切口にしませんでした。
そして、一月後には新たな原稿の執筆に取りかかりました。
再出発後10年をかけて、多くの弟子初め、沢山の方々の協力と援助の下に辞典は完成しました。その数13万枚、辞典に盛られた語彙数は4万語に及びました。
そして完成直後、博士はただちにその改訂に着手、約1万に及ぶ新項目はじめ改訂用に用意されたカードは、その数十万枚を超えるものでした。
「人々の役に立つ、生きた学問でなければならない」ことを常々説いていた博士は、佛教辞典についても、伝統的な仏教語にたよらずに、現代人が理解しやすい日本語で解説することを早くから企図し、その実現にむけて、あらゆる機会を捉えてはさまざまな資料を集め、膨大な原稿を用意していました。
その折々の成果は、少なくも3度、中村辞典として公にされましたが、いつの時でも、博士にとってそれは完成版とはならず、完成に向けての原稿作りは、文字通りライフワークとして、博士に残された命が数ヶ月を切り、もはやペンを握れなくなる時まで続きました。
「私は、研究を勉め強いてきました」と笑いながらおっしゃられる背後に潜む不屈の意志が、苦難を乗り越え、「不朽の盛事」にふさわしい辞典を完成させたのです。
二度の改訂を経て、いわば中村仏教語辞典の決定版ともいうべきものとして公刊された『広説佛教語大辞典』全4巻は、53000にも及ぶ語彙数の豊富さ、文献学的確固たる基礎に支えられた確かさに加え、「わかりやすい」という博士の強い願いが具現化された一大特徴のゆえに、多くの人々に受け入れられ、また中国語にも翻訳されています。
(辞典にまつわる一連のいきさつは、佛教語大辞典1975年、広説仏教語大辞典2001年、縮刷佛教語大辞典2010年のあとがきに詳しく記されています。)

ブッダへの帰依
ブッダの教えを広く人々に伝えようとされた中村博士は、東方学院を訪ねてこられる方に対して、一切分け隔てをしませんでした。そして、お会いになった後には、かならず来訪者とともに理事長室を出られ、エレベータの扉が閉まるまで笑顔で見送りました。
それは、晩年になって、杖をゆっくりつきながら歩くことがままならない時になっても続きました。
博士が死期を察せられた頃のある象徴的な出来事を、ご親交の深かった写真家の丸山勇さんが本会の機関誌『東方』第15号(追悼号)にご寄稿下さいました。
出版物の打ち合わせで神田明神の東方学院に中村元先生をお訪ねしたのは、平成8年2月29日の昼下がりであった。
お目にかかるなり、
「丸山さんにお願いがあるのですが」
「何でございましょうか」
「実は、写真を一枚引き伸ばして頂きたいのですが。私も、この年になりますと先のことを考えなければと思うのです。いずれ行く処にいかねばならない時が来るので、その前に、私なりに準備をして置きたいと思っているのですよ」
「もちろん喜んでお作りさせて頂きますが、写真は何がよろしいでしょうか」
「できたらサールナート出土の初転法輪像をお願いしたいのですが。いずれその時が来たら、長い間お世話になっている明神さんで何等かのことをしなければいけないと思っておりますので。その際には、私の写真は小さく奥に飾って、前面に初転法輪像を掲げ、おいでになった方々には私にではなく、ブッダに礼拝して頂きたいと思っているのですよ。私は、生涯ブッダに仕えた身ですから。」
しかし、お別れしてから、ご依頼の趣旨が趣旨だけに、余り早くお届けしても、また、遅すぎても失礼になるし、いつお届けしたら良いか悩み続けていた。
お手元にお届けした5ヶ月後の平成8年7月25日が昨日のように思い出されます。(丸山勇「写真の想い出」より抜粋)
それから3年の月日が流れ、平成11年10月10日、博士は静かに息を引きとりました。博士の遺志をうけ、葬儀では、ブッダが最初に説法をされたサールナートの地で出土した初転法輪像が博士の遺影とともに飾られました。
参列された人々が初転法輪像に合掌する姿が印象に残る、中村博士との最期のお別れとなりました。

釈尊の初転法輪像
博士は生前「このブッダ像はもっとも穏やかなお姿をしておられる」と讃えていました。